大変大変ご無沙汰をしました。申し訳ありませんm(_/_)m もう、皆さんお気づきかもしれませんが、当サイトは発信場所を東京から九州へ移動しました。 えっ!?とうとう北九州へ? ・・と言いたいのですが、ちょっと勢い余って南国は鹿児島からの通信となります。洞海湾に少しでも近づきたいという思いが高じて、とうとう東京を飛び出したのですが、着地点がちょっと南に寄ってしまいました。
さて本題に戻りまして、ここは小倉北区寿山町足立公園展望台です。今年は冷春のお陰で桜の時期が長いようですね。気鋭のカメラマンBさんの久しぶりの透き通るショットをお楽しみ下さい。
その昔(760年頃)、和気清麻呂という、時の政治勢力に翻弄された有能な高級官僚が、宇佐神宮の御神託を理由に、足の筋を切られ大隅の国(今の鹿児島県)に流されるとき、この地の泉に浸すと足が立った、という言い伝えでこの地の名がついた、という説もあるそうです。清麻呂の無念を晴らす美しい桜の公園になりましたね。
冒頭の句は、小倉でお医者さんをされていたゆかりの俳人の作で、やはり清麻呂ゆかりの妙見宮に、この句を刻んだ石碑があるそうです。この「妙見」という信仰対象も、突っ込んでゆくと味の出そうな謂れがありそうで、興味をそそりますが・・・なぜかといいますと、清麻呂さんが流された先が、なんと今回拙者赤か毛が移り住むようになった、鹿児島県霧島市の牧園というところにあり、この近くにも妙見という地名が見られます。
なぜ、清麻呂が大隅に流されたのか、この地に昔からいた隼人族との関係は・・・、などなど空想は膨らんでゆきます・・・しかし!赤か毛の眼差しは、変わらず洞海湾のほうを向いていますので、これからも気長に、末永いお付き合いをお願いいたします。(桜の枝の間から若戸大橋の橋桁、見えますか?)
視野を少し広げて、これからは九州全体の話題も発掘しながら、地域の宝探しに邁進します。
ただ、現在の赤か毛に欠けているものがあると思います。それは、地域の宝は探せても、それを活かし、具体的な街づくりとして提案する力です。実はその力をつけるべく、研究教育機関に身を置いて、しばらく修行をしようと思うようになりました。今回の移動はその為のものです。そして、出来るだけ近い将来、皆さんの前に、より強力になった赤か毛として現れたいと思います。
しばし、「休眠」という状態になりますが、このサイトはこのままオープンにしておきますので、思い立ったときに過去の写真や記事など、じっくりと干渉いただけると嬉しいです。 そう、特に謎のカメラマンBさんの名ショットの数々は、このブログの命でした。 ひとつの写真ギャラリーとしてお考えいただければ幸いです。
それでは皆さん、お元気で。3年とちょっとでしたが、102回の記事を書くことができました。たくさんのご訪問と嬉しいコメント、ほんとうに有難うございました。またいつかお会いしましょう。
撮影:L.T. 2010年4月<4枚とも>
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提供:洞山保存会、妹川先生
]]>筑豊地方も瀬戸内に並ぶくらいため池の多い土地ですが、このような貯水池はあちこちに見られ、多くの畑地を潤しています。
見下ろせば美しい里山の風景、そして拙者赤か毛が密かに新潟のお米に肩を並べると、自慢している見事な棚田が広がっています。
見返すとダムの堤防が左奥に小さく見えますが、実は今日の話題の主役は、このダムではなく、ダムを挟んで小ぢんまりとそびえる二つの山なのです。
写真では位置関係がわかりにくいので、地図を用意しました(^o^ゞ・・・(天才カメラマンのL.T.さんが・・・)
「現在地」と赤く書かれているところが、ダムの堤防の下あたりです。ダムは実は二つあり、内ヶ磯ダムの上にもうひとつ、一回り大きな福知山ダムがあります。そしてその両側にある二つの小山が、雲取山(左)と鷹取山(右)です。(中央奥にそびえるのが福智山。)
戦国の当時・・天正年間といいますから、いまから約450年前、海外貿易で栄える博多や芦屋の覇権を争い、山口の大内氏と大分の大友氏の二大勢力、それに地元の麻生、香月、宗像、毛利の各氏が入り乱れ、筑豊を主戦場に戦っていたそうです。
雲取を任された麻生、その後ろ盾の香月氏、背景は山口方の大勢力大内氏。一方鷹取に城を構えていたのは、大友の大軍勢に支えられた毛利鎮実(しげざね)でした。
実際の戦いに加え、情報戦や外交交渉も盛んに行われ、麻生氏は大友方に寝返ろうとしました。その情報を察知した、畑城の香月氏は激怒し、雲取城を奇襲。麻生氏を壊滅するに加え、この頓野の地まで落ち延びた子女を含む40人を皆殺しにしたといいます。
頓野自体の地名は、残念ながら今の赤か毛には知る手がかりがありませんが、上頓野のお寺に「麻生墓」という石祠があったり、四十塚という地名・バス停などが残っているようです。
戦乱の世の記憶が、地名やバス停名に残るだけではなく、麻生墓は木屋瀬の麻生氏の末裔が、雲取城落城を偲んで建立されたもので、今も木剣などを上げて祈願をする人が絶えないそうです。
秋の景 つわものどもが 夢のあと (芭蕉翁原作を秋に読み替えさせていただきました)
撮影:2008年10月 L.T. <9枚とも>
]]>人や地方によっては、彼岸という名前を避けて、こう呼ばれる場合が多いようですが、この他にもいろんな呼び名があるようです。どれも、ここで書くにはちょっと縁起が・・というような名ばかりです。
それにしても、形といい色といい妖艶というか・・また、気がついたらいつの間にか現れているような印象があって、不思議な花であることは間違いありません。
ある時期になると忽然と現れ、あたりを赤く染め忽然と消えてゆくような、春の桜の持つ妖艶さに通じるものがあります。
球根に毒があることは良く知られていますが、この性質を利用してモグラや野鼠など、地中性の動物に田畑を荒らされないように、あぜ道などに植えられたのでは・・といわれています。また、土葬の習慣のあるアジア地方で、墓を動物に掘り荒らされないように植えたとも言われ、これが彼岸の時期に咲くこともあいまって、妖艶なイメージが固まったのかもしれませんね。
一方、曼珠沙華という名は仏教用語で「天上の花」、おめでたい事がある兆しに、天上から赤い花が降ってくるという、仏教の経典があるそうです。逆のイメージですね。
逆といえば、この花はま夏の終わりに茎がすーっと伸びて、秋に花が咲き、その後球根から葉が出てきて、冬は葉のまま冬を越すのだとか。その間に葉で光合成をして、球根に栄養を貯め次の年の開花に備えるのだそうです。いつの間にか咲いているのは、このためですね。
毒を利用した植え方もさることながら、華自身の合理的な咲枯のサイクル・・、自然の知恵にも深いものがあります。
撮影:2007年10月 L.T. <4枚とも>
]]>今日は、北九州を軸に、九州・山口の近代化遺産について考えるシンポジウムのお知らせです。時間のある方はぜひお出かけください。
いやー、面白そうですね!近くに住んでいたら・・・というか、ほんとは会社を休んで飛行機に乗って参加を、と密かに目論んでいたのですが、どうしても外せない要件が舞い込んでしまって断念しました。
お近くの皆さん、まだ間に合うと思います。先着500名さま「無料」というのが、またいいですね。ふるってご参加ください。
]]>夏だ、台風だ、豪雨だと振り回されたこの夏だったが、このカルスト台地の風景が生まれるに至った気の遠くなるような期間には、どのような出来事が起きたのか・・・
三億という数字が、どれだけ気の遠くなるような大きさか・・・
羊の群れにたとえられる石灰岩は、その昔赤道付近の浅瀬にあった珊瑚やその死骸の堆積物だった由。それが太平洋プレートの移動によって、この地まで到達した時間・・・
さらには、8万年前の阿蘇山の噴火によって、この石灰石が熱せられ、丸みを帯びただけではなく、化石となってその形を残していた生き物も、その姿を消してしまったという・・・
はるかな時間の流れに、思いをはせようとしても、漆黒の闇に行灯を翳すように、向こうが見通せないジレンマに陥る・・・
遠くに見える香春も、海を隔てた秋吉・四国のカルストも、同じ珊瑚のコロニーだったと思えば、「日本三大カルスト」などと分別しなくても良い様な気分になってしまう・・・
ただひたすら、目前のすばらしい景色に意識を戻して、現世を懸命に生きることの大切さを、再確認する。
撮影:L.T. 8枚とも <2008年9月>
]]>]]>
そう、蓮華草です。小さい頃はあちこちの田んぼや畑に咲いていて、その中を走り回るのがうれしかった。 でも、田んぼは要注意。 柔らかい土に深い足跡がたくさん残っていて、春先は固まっているために、子供の足はそれにとられて捻挫をしてしまうのです。
ついこの間、雪景色に息を呑んだ朳(えぶり)の集落も、春にはこんなに色鮮やかな風景に変わります。 ただのどかで美しいだけではありません。 普通の植物は土から栄養分を吸い上げるのですが、この蓮華草、ご存知のように空気中の窒素を取り込み自らの栄養分とするだけではなく、根っこに窒素を溜め込むため、田んぼや畑の肥料として使えるのです。 なんとハイテクな、進化した花なのでしょうか! そして、昔の人たちは、どうしてそのことを知ったのでしょうか?
秋に収穫を終えると蓮華草を蒔き、春にはそれを土に鋤き込んで不足する土中の窒素分を補うのです。化学肥料ほどパワフルではないにしても、なんと自然な農法ではありませんか。 しかも、このように春の風景を見せてくれて、おまけに花の蜜はとても甘くいい香りです。 養蜂家は、この蓮華草を追いかけてこの九州から、北の国へ向かうそうです。
桜は確かに美しい、日本の代表的な春の花ですが、この小さく健気な蓮華草にも注目したいですね。
撮影:L.T. 3枚とも <2004年4月>
]]>真っ青な空に良く映える、さてこちらは白木蓮か、はたまた辛夷か・・・。
いずれにしても、早春の街並みに、突然表れる白い花の群れは、思わず笑顔にさせてくれます。 寒くつらい冬の気分を、一気に払拭し、もう春が来た!と元気にさせてくれる力が、この花にはあるように思います。正解は、白木蓮ですね。 大振りですが花びらが全部開かず、上を向いてすっくと立ち上がるように咲いています。 以前は蘭の花に似ていることから「木蘭」とも書いたそうですが、いまは蓮の花になぞらえて、この字が当てられています。
前々回の桜桃「ユスラウメ」と同様、この花も中国名と日本名に錯綜がみられ、中国では白木蓮を辛夷(しんい)と書くそうです。紛らわしいですね・・・
さて、日本の辛夷(こぶし)はこちら。
白木蓮に比べて花が小ぶりですが、もったいぶらずあっけらかんと全開するのが特徴です。 昔の人はこの花が開くのを見て、その年の農作業の段取りを考えたり、花の向きで豊作かどうかを占ったそうです。 地方によっては「種まき桜」とも呼ぶそうです。
開花直前のつぼみの形が子供のこぶしのに似ていることから、この名が付いたと言う事ですが、 建築の世界では、お茶室に欠かせない銘木のひとつで、ほのかなやさしい香りがすることから、 「香節」と書いて「こぶし」とよみ、昔から愛でられてきました。
白木蓮と辛夷、似て非なるも、それぞれの個性を花咲かせいてます。
撮影:L.T. 2007年3月 <7枚とも>
]]>直方名物といえば「成金饅頭」。なぜ「成金」で「白い餡」で「どら焼き」で「ネジ梅の焼き印」なのかについては諸説あるが、その謎を追求する。
成金という言葉は、もともと将棋用語だが、貧乏だった人がいきなり、お金持ちになるという意味で使われるようになったのは、日露戦争後の株価急騰で大儲けした鈴木久五郎のことをそう呼んだところからであると伝えられている。
まさにその時期、直方では相場で大損をしようとしている男がいた。穀物と菓子を商っていた牛嶋準蔵、まだ二十代前半。日露戦争に便乗しての値上がりを目論み大量の豆を手配したが、直後に戦争が終わり、彼の手元に残ったのは大暴落した貨車1両分の白花豆。途方に暮れて先輩に相談する。
牛嶋青年 「先輩、豆が余ってしもたんですが。どげしたら良かでっしょうか」
先輩曰く 「どげんもこげんも、自分で売ったらよかろうもん」
牛嶋青年 「それにしたっちゃ、こいだけの豆どげして売ったらよかやら・・・」
先輩 「そうたいねー、餡こたっぷりの菓子ばつくってみたらどげんね!」
と、いうような会話があったかどうかは定かではないが、ともかく、牛嶋青年は、明治時代のその頃に、釜一杯の白花豆の餡こを炊いて、鉄板で焼いた皮にたっぷり挟んで売りに出した。それが大ヒットしたのが「成金饅頭」である。その饅頭がいつから「成金饅頭」という名で売られはじめたかははっきりしないが「成金」ということばと「成金饅頭」は、日露戦争終戦にまつわる相場つながりがあったわけだ。
現在の「成金饅頭」餡は、白隠元豆などのこし餡とうずら豆の餡のブレンドであり、店により比率が違うように見受けられる。牛嶋青年が抱え込んだ在庫の豆がもし小豆やエンドウだったら「成金饅頭」は、別の色の餡こになっていただろう。なお、その先輩も後日「成金饅頭」屋を始めたことは言う迄もない。
その2◆なぜ「成金饅頭」は梅の焼き印が押してあるのか?
「成金饅頭」の創始者「かめや」牛嶋家の家紋が「梅鉢」だった。それで、牛嶋準蔵氏は、梅模様の色々なものをコレクションしていて、その中に、ネジ梅の焼き印があった。それを饅頭に押したのが始まりである。もっとも、売り出し当初から押されていたわけではなく、いつから押されるようになったかは記録に残っていない。ちなみに、その焼き印のネジ梅の花弁とシベは時計回り(右廻り)である。
饅頭の素材・形状・名称に続き、焼き印のデザインも他の業者に追従されるようになるわけだが、創始者のネジ梅の焼き印に敬意を表してか、その当時、それ以外の店のネジ梅の焼き印は、時計逆回り(左回り)であった。現在販売中の直方の五店鋪(博多屋/松野/四宮/大石/喜久屋)の多くの饅頭の焼き印もそうである。ちなみに現在の成金饅頭製造販売店のうち、戦前から成金饅頭を作っている店は「博多屋」のみである。
ともあれ、現在売られている「成金饅頭」の素材、形状とデザインには、このような背景があるのだ。
その3◆商標登録について
<中略>
近年「阪神優勝」の商標登録が認可されていたことが明るみに出て、その類いがまかり通ると知られるや、「巨人優勝」「西武優勝」「ホークス優勝」のような商標登録の申請が全国的に流行り出したことを思い出した。もっとも「阪神優勝」は、そののち無効審判が確定し、他の「○○優勝」もすべて拒絶査定を受けている。
「成金饅頭」の商標登録をあえてしなかった牛嶋準蔵氏のおかげで全国的な銘菓になったことは筑豊の心意気が感じられる。創業者牛嶋準蔵氏由来の「ネジ梅」の焼印を眺めながら、饅頭を口に入れる。シュガーロード長崎街道沿いの、温かい甘い筑豊の香りである。うまい。(2004年11月 遠藤順子)
※牛嶋青年と某先輩との会話は、拙者赤か毛により筑豊弁風に脚色させて頂きました。 尚、本ブログと大石さんとは特別な関係はございません。ただし、撮影に当たっては一言声をおかけし、ご了承を頂いています。 また、上記五店舗のうち松野さんは廃業され、2009年3月現在四店舗となっているとのことです。(遠藤氏情報)
撮影:R.T. 2009年2月 <2・3・4・6・7枚目> その他の画像は「のぶ工房」さんHPより
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とても可憐でいて、芯の強そうな花だなーと思い、調べて見ると「性質は剛健で、耐寒性・耐暑性ともに強く、病害虫にも強い」(ウィキペディア)とあります。
これは、中間のあるお宅の庭に咲いていたユスラウメですが、川筋の女性を絵にしたような花だなーととても興味がわきました。 原産は中国ということですが、実は朝鮮半島に多く自生していた、とか、モンゴルにもあったとか、あまりはっきりしません。 ちなみに英名はKorean Cherry、Nanking Cherry, Downy(柔らかい) Cherry 等ですので、これまた特定が難しいですね。
背丈は2mほどで移植も簡単、扱いやすく、田植えの頃にたくさんの実をつけて甘酸っぱく、園芸家にも美食家にも好まれるようです。 ジャムにしても美味しいそうですよ。
「桜桃」というのは実は主に食用に栽培された中国名で、日本ではその姿をみて「梅桃」と書いたりします。 ところ変われば・・・ですね。 日本では江戸期にはすでに栽培されていたようで、主に観賞用だったようです。 可憐な花はもちろんですが、赤い実についても俳句に読まれ、愛でられている様子が窺えます。
ふるさとの 庭のどこかに ゆすらうめ <池内たかし>
学術的にはバラ科サクラ属ですから、中国名に軍配が上がりますが、それにしても、もうひとつ疑問が残ります。 そう、じゃあ「ユスラ」ってなによ!? ってことですよね。
たくさんの実をつけるにしては枝が細く、風が吹いてもゆすられて実が落ちるとか、食用に実を採るときに枝をゆすったから、とか言われています。 あるいは韓国語の「移徒楽」(イサラ=移植して楽しむ)が訛って「ユスラ」になったとも言われています。
移植がしやすいというその性質から、海峡を渡ってこの地に植えられ、根付いていったユスラウメ。 可憐な中にある強さは、その歴史を生き抜いてきた強さでもあったかと気づかされました。
撮影:2008年3月 L.T. <6枚とも>
]]>ゴシックアーチの入り口ゲートをくぐると
そこは、まるでミラノのガレリアのような連続アーチの商店街。 その一角に・・・
どどーーーん。
VANジャケットも負けてしまう、SINCE 1932 の文字が光る。
昭和記念博物館とでもいえるような、昭和のデザインの集積。 さらにトイレに立つと・・・
この上なくエイジングを施された木の扉、ピンク電話、そして床のモザイクタイル。しかし、ここではそのようなことはすべて脇役でしかない!
77年間にわたって、ずっと主役であり続けたこの逸品を措いて、ジャーマンベーカリーは語れないのだ!!
世代を超えて、こよなく愛されてきたこのシューは、その日の分だけを毎日作られているので、すぐに売切れてしまいます。
見てください、このしっとりとした風情。 中にはふんわりとやさしい甘みのカスタードクリームが・・・
千鳥饅頭、ひよこ、すくのかめ、成金饅頭・・・名だたる銘菓を産んだ、シュガーロード筑豊の甘み文化の中でも、究極に生ものとしての甘みを守り続けているジャーマンベーカリー。 その起源を記したソースはなかなか見つかりません。 ひょっとして、日本の近代化の過程で来日した多くのドイツ人たちの影響かもしれませんね。
撮影:2009年2月 R.T.<1,2,5,8,9,10枚目> 2007年4月 M.O.<3,4,6,7枚目>
]]>攻めるときは高く見え、降りてゆくときは低く感じて、まるで猫が背を丸めたり伸ばしているようだということで、猫城と名づけられたそうです。(中間市HPより)
いま、その地は月瀬八幡宮になっていて、隣には恵比須宮もあります。鳥居が仲良く二つ並んでいますね。
こちらが恵比寿宮の拝殿です。木の色と垂れ幕の藍色が良く合っています。日本の色合いですね。 その後ろに・・・なんだか変わった形の屋根が・・・
二の鳥居の脇に佇む二つのとんがり屋根のおうち・・・そうです、猫城に因んで建てられた宮司さんのお宅なのです。 軒下で悠を眺めて腕組みするのは、未来の宮司さんでしょうか!?
さらに奥へずいと進むと、三の鳥居。 この上にお城があったということで、その名残のように急な階段が上へと伸びています。鳥居には明治16年。その上に高倉健さんの五代前、豪商「小松屋」のご内儀、小田宅子さんを偲ぶ会の立て看板がありました。
見上げると上の鳥居が、おいでおいでと誘っています。四の鳥居ですね。 神社の配置というのは、とても面白いと思います。参道からあくまでもまっすぐ、本殿のご神体に向かって一直線に配置しているお宮さんがあるかと思ったら、ある神社ではわざと鍵の手に参道が曲がっていたり・・・。こちらの月瀬八幡は、上へと視線が変化します。
上には猫城址の大きな石碑。 人手を使って揚げたそうです。
本殿は立派な流れ造り。千木と鰹木の乗ったこの社は、寛永15年(1638)時の筑前二代藩主、黒田忠之が宇佐八幡から勧請(分祀)して建立しました。
帰りに月瀬八幡の近くで見つけたレトロな建物。 昭和初期を思わせる駐在所か郵便局のように見受けられます。歩けば歩くほど味の出てくる街、行き交う人々が自然に挨拶を交わし、厚い人情と歴史の重みを感じられる中間は上底井野。 赤間街道と長崎街道を結ぶ「底井野往還」の中心地として栄え、今も往時を偲ぶ面影を色濃く残しています。
撮影:2009年1月 L.Q. <1.7.8枚目> L.T. <2~6、9枚目>
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太郎の屋根に
雪降りつむ
次郎を眠らせ
次郎の屋根に
雪降りつむ
太郎を眠らせ・・・
次郎を眠らせ・・・
朳(えぶり)とは、土を平らにする農具のことだそうです。平らにすることは、人間の生活にとってとても大切なことでした。特に米を生産する農耕生活では、田んぼに水を張るため、水平を作り出す技術は欠かせなかったと思います。この技術が現代の日本の街を形作る基礎となっていることを、忘れてはなりません。今でも「水盛り遣り方」といって、水平を出し、建物の位置を決めることが、建築工事のいの一番の仕事です。
また、朳(えぶり)にまつわるものとして、東北地方に「えんぶり」という雪祭りがあります。その年の豊穣を願い、稲作の動作を表わす舞を踊りながら、雪の街中を練り歩くそうです。えぶりの雪、思わぬ所に縁があるようですね。
撮影:L.T. 2009年1月 <12枚とも>
]]>最高峰である山の名を冠して、この地方の背骨のように横たわる山地の中でも、この山は極めて優しい山容で多くの人々を癒し、惹きつけています。
この山地によって、筑前と豊前が区切られ、自然の国境を形成していましたが、同時に この山によって両国の人々が交流したのではないかと思います。ほぼ真北に皿倉山を臨み、左右に二つの国を眺める視界は、時には戦慄の風景であり、またあるときにはのどかな融和の景色であったのではないか、と想像は膨らむのです。
山頂からは、いわゆる360度のパノラマで、前々回に触れた「通信」の役割の一端を担ったであろうと同時に、一種の「中立地帯」だったのではないかとも想像します。それは、この山頂に築城の跡がなく、一段低い最高峰をオフセットした鷹取山に城を築かざるを得なかったことも、非武装中立・緊張エリアの存在を匂わせます。
いかにも「天然の要塞」然として遠賀平野を見下ろす鷹取城跡の佇まいに対して、あくまでも寛容でやさしい福智山の山姿が、緊張をほぐし両国の融和を促しているように、私には感じられるのです。
やさしい曲線 の頂部は一面ススキに覆われ、さらにその柔和な表情を増して人々を受け入れる。
しかし、山肌を眺めると・・・
内に秘めた荒々しい気性が、そこここに現れているのに気がつきます。
そして、山頂付近に残る鳥居や祠。
祠の中には「英彦山不動明王」のお札が納められています。福智山は、英彦山の影響を強く受けた修験道の山でもあったのです。数々の奇岩は修験者の修行の跡でした。
修験道は、山岳宗教をベースに密教や陰陽道と融合し、古来から各時代の政治勢力に影響を及ぼすことで、いつの時代にも活動を禁じられることが多かった日本固有の宗教です。その活動は、山の尾根伝いに国境をまたぎ、独自の支配勢力を持っていたとも聞きます。先ほどから述べていた「非武装中立地帯」とは、この第三の勢力が支配した歴史に現れにくいエリアだったのではないでしょうか。黒崎の岡田神社で触れた「ヤタノカラス」も、この勢力ではないかと思います。
このような激しさを内に秘めた鷹揚さが、国境の山系を取り仕切り、まとめる名君のように思えてきます。あるいは、国を治めるものはこうあって欲しいという願いを、この山に映しているのかもしれません。「幸福の智恵の山」、優峰とも言うべき福智山の持つ魅力は、そんなところにあるような気がします。
撮影:R.T. 2008年11月 <10枚とも>
]]>本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年が皆さんにとってよい一年となりますよう、お祈りしております。 赤か毛
]]>これが、現在の皿倉山頂にある情報伝達施設です。かっこいいですねー!。
現代の火である電気による煙、すなわち電波によって様々な情報を伝え続けています。テレビ・ラジオに加え、新聞や電力会社、それに警察などの無線施設があるとのこと。特にテレビラジオの出力が強いことと、このパノラマが示すとおり、かなり広範囲に電波を飛ばすことができます。山口県西部・大分県北部、そして長崎県壱岐まで届いているそうですね。KBCの建物が指差すように、南方を向いている先には、筑豊の優峰「福智山」が見えます。このような峰々を結んで、狼煙や火で合図を送っていたのでしょうか。
情報というとなにやら乾いた感じがしますが、人間の喜怒哀楽に関する「知らせ」も、重要な情報伝達のひとつです。この電波塔を介して、多くの人々の喜びや悲しみが伝えられたのではないかと想像します。
目を西に転じてみますと、夕日に光るのは遠賀川。その向こうは響灘に浮かぶ地の島と大島。手前の暗がりに浮かぶ黒いしまは瀬板の森でしょうか。さらに手前の三角の山は麻生氏が城を構えた花尾山ですね。
見事なうろこ雲が、夕日に染まってゆきます。
水巻あたりを拡大すると、明神ケ辻山・多賀山・豊前坊山の水巻三山のかわいい峰峰がうずくまっています。その向こうはもう芦屋から波津にかけての海岸ですね。
様々な人たちの暮らしを、一気に染め上げて夕日が沈んでゆきます。
このブログ、遠賀・洞海湾通信を始めて、丸二年が過ぎようとしています。この間、当サイトを訪れうれしいコメントを残してくださったすべての方々に感謝をしつつ・・・
今年最後の更新をさせていただきました。ここまで続けてこられたのも、ひとえに皆さんのおかげと思っています。来年も変わらず、遠賀・洞海湾通信をよろしくお願いいたしますとともに、皆さんもどうかよいお年を迎えられますよう、お祈りしております。どうもありがとうございました。
撮影:L.T. 2008年10月 <11枚とも>
]]>ふもとの「山麓駅」。見上げると空にはなにやら・・・
とりあえず階段状のホームへ。ご存知、帆柱ケーブル。2001年に新車両となって国内のケーブルカーの中では、とてもモダンなものになりました。天井までガラス張りで、しかも天窓は開けることもできます。車両の鼻先にCWAと見えるのは、スイスの車両メーカーの名前です。車両の先は昼なお暗い山中への軌道が見えます。ケーブルカーの開業は、昭和32年。当時自動化されていなかった通信機器を守るNHK/RKB/TNCの従業員の方々の、通勤の足として整備されたそうです。
山頂駅に着くと、今では名物となった感のあるパラグライダーが、三つ四つ、二つ三つと皿倉の山の端に飛び遊んでいます。その傍らには、もとロープウェイのあったところに、更なる起動が・・・
どどーん、と、ガラスと鉄のインゴットのような「スロープカー」。昭和37年から動いていたロープウェイに代わって、昨年(平成19年)の今日、12月28日にお目見えしました。満一歳のお誕生日です。
山頂に着くと、おおーーーっ。
みな一同に空を見上げています。ここが、地上たったの622mとは思えない光景が広がっています。
まさに、抜けるような青空ですね。左下には洞海湾、八幡から枝光・戸畑方面までくっきりと見えます。さらに右側に目を移すと、小倉の町、そして関門海峡も一望ですね。
電波塔とその向こうには、小倉の小文字山、田ノ浦や周防灘まで見えています。ここから先は、大舟に・・いや、パラグライダーに乗ったつもりで、空中散歩を楽しんでください。
戸畑の町と、スペースワールド・若戸大橋もくっきりです!右下に見えるのは、大谷球場でしょうか?都市高速がスパゲティのようにうねっていますね。
関門架橋は、こんな方向に見えるんですね。
こちらは、大蔵から高見、そして市立体育館、リバーシティと小倉城、その向こうは小倉駅とリーガロイヤルでしょうか。
空の散歩、楽しんできただけましたか!? また、一緒に空の旅でお会いしましょう。
撮影:平成20年11月 L.T. <12枚とも>
]]>誰もが車を持てなかった時代、輝いていた責任感と誇り
人々が移動することへの期待と夢、明るい未来が待っていた
舟から列車へと時代が移るとき、川の持つ役割が薄れ
列車から車へと時代が移るとき、街の形が変わった
集まり、共にどこかへ向かうという意識も薄れ
好きなときに、好きなところへ、好きな人と移動できる「自由」
すばらしい自由と同時に、
巨大な駐車施設と映画と食事と買い物ができる空間を手に入れた
それと引き換えに失ったものを考えてみませんか
頑張っている筑豊電鉄
車の邪魔にならないルートを走っていたから生き残ったのか
宅地化の波に乗れたのか
魅力ある街には路面電車がある
長崎、広島、函館、札幌、サンフランシスコ・・・
かつて路面電車が輝いた街がある
東京、横浜、京都、ロスアンジェルス、そして・・・北九州!
油を売りたい、車を売りたい、活性化したい、発展したい気持ちが
住み心地を追い抜いて、街の形が変わった
そろそろ、この島国に乗って、みんなでどこへ行きたいのか
決めなければ
昭和26年に設立され、昭和31年貞元(元熊西)~中間間が開業。 黒崎駅前~筑豊直方間が開通したのは昭和34年。 来年で全線開通50周年ですね。 かつては飯塚を通って、福岡まで延びる計画でした。 今はなき宮地岳線と接続の構想もあったそうです。 北九州線との乗り入れのため路面電車型の車両を使用。 現在もワンマンとせずに、黒のがま口を下げた車掌さん から切符を買える貴重な電車です。
撮影:L.T. 2008年10月 <10枚とも>
]]>おおっ、もしかして、その背中は・・・。 そうです、お馴染み遠賀堀川運河。
昨年の近代化産業遺産認定を記念して行われた、川ひらた試乗体験イベントです。
河守神社のそばに造られた船着場から出船。 ん?こんなに水があったっけ? そうなんです。いつもは・・・
こうですよね。文化遺産の川底を無造作に切り裂き、申し訳程度に水路(みずみち)をつくって流しています。 が・・・
この日に限ってこのような大胆というか涙ぐましい努力の末、昔をしのぶ「川ひらた」の運行が可能になったのです。関係者の方々、お疲れ様でした。地元の方々の熱い思いがこのようなイベントを実現させたと思います。
ともあれ岸を離れ、滔々と(?)水を湛えた堀川を進みます。 当時はこうだったのかなと、思い起こすには十分の水量ですね。
さて、向かった先は運河工事の最難所と言われた、車返しの伐り通し。
岩盤にに残るノミの跡を目の当たりにすることができます。 堀川沿いには、寿命(じめ)の唐戸、中間の唐戸、曲川との立体交差「伏せ越し」跡、河守神社(と逆立ち狛犬)、車返しの伐り通し(ノミの跡)、折尾駅と見所が多く、川くだりとして整備すると、結構楽しめるものになるのではないでしょうか? 終点は洞海湾とすればさらに水路としての楽しみは多く、江川を利用して芦屋方面へ足を伸ばしたり、船を乗り換える必要はあるでしょうが、洞海湾の各所に船着場を用意して、二島・黒崎・藤木・若松・八幡・枝光・戸畑いろんなルートで西部北九州エリアを訪れることも可能です。様々な交通機関を利用して、楽しみスポットをめぐることができれば・・・、『観光地北九州』というのも実現可能な選択肢だと思います。
撮影:R.T. 2008年11月 <8枚とも>
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