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皇后崎 <伝説と電車と花見の街> [物語]

皇后崎、神功皇后の上陸地。伝説の岬はいまこの碑を除いて面影が薄いようです。 思い返せば、萩原の方から尾根が続いていて、3号線のところで切り通し、市営住宅から昔の皇后崎の電停のところまで、一連の馬の背のような岬だったのですね。 桜の名所として、皇后崎公園が有名ですが、40年近く前、皇后崎の電停のすぐ上まで森が続き、花見の頃は炭坑節の歌声が絶えませんでした。 身重の皇后はこのあと半島へと大軍を率いていったと言うのですが、古代のジャンヌダルクのような女傑ですね。折れた船の帆柱を継いで、帆柱山の名付け親とも、山から下りたときに辺りが暗くなって、「更に暗し」と皿倉山の名付け親でもあると言われています。 

皇后崎電停前に、この建物がありました。いまも、現役で筑豊電鉄への送電に活躍しているようです。 電車は電力会社からの送電で動いていますが、それを直流に変える装置がこの中にあり、西鉄の北九州線が動いていたときは、筑鉄と両方に直流の電気を送っていたそうです。 この変電所の建物について調べている方がおられるのでここに紹介します。 何か共通したデザインで、時代を表現しているようですね。

撮影:2007年4月 L.T. <2枚とも>


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コメント 22

こんばんは

無事に(?)帰国しました。

皇后崎・・何にも知りませんでした。
変わった地名だとは思っていましたが、
あまりに地元の歴史に無知ですね(汗)

中国は驚きの連続で、まさにサプライズ。。
中でも交通事情の悪さ(交通マナーが悪いとも言う)は
閉口してしまいました。最日は怖くて横断歩道渡れませんでした。
でも1週間もすると慣れるところが逆に怖い・・

やっぱり日本はいいです♪♪
by こんばんは (2007-05-28 21:46) 

質実剛健

入力のやり方を間違えました・・
上記コメントは
by 質実剛健 です 
by 質実剛健 (2007-05-28 21:49) 

wanwanmaru

皇后崎という地名、なんか由緒ある地名だなぁと
思っていたら、思いっきり由緒正しいんですね。

でも石碑が一つあるだけというのもちょっと寂しい
ような気がします。もう少しPRすればいいのに・・。

北九州ってなんかこんな場所多いですよね。色々
調べてみるのも楽しそうです。
by wanwanmaru (2007-05-28 22:08) 

薄か毛

皇后崎の石碑と背景の煙突?いい構図ですね。
神功皇后といえば仲哀天皇の妻であり15代天皇 応神天皇のお母さんで日本書記にも北九州に行ったことが書いてあるそうです。この人物についてはいろいろ謎が多くて調べてみるとおもしろそうです。そうしてみるとこの風景、なかなかディープな趣とおもいません?赤か毛さん。
そういえば、香春町と勝山町の間にある仲哀トンネルの名前も気になるなぁ・・・・・・。
by 薄か毛 (2007-05-28 23:26) 

赤か毛

caramelpapaさん、コンクリとはなかなかハードでドライな感じのする
保護の方法ですが、30年も経てばそれなりの風合いが出ているかも
しれませんね。
by 赤か毛 (2007-05-29 06:11) 

赤か毛

質実剛健さん、おかえりなさい!無事の御帰国なによりです。
私も6年ほど前はよく中国に通いましたが、交通ルールはあるのか
ないのか、肝試しとチキンレースの毎日に神経を研ぎ澄まされました。
あれから経済成長目覚しいですが、そのへんの状況はあまり変わっていないようですね。

しかし、光化学スモッグと黄砂対策、そして有毒物質の混入については
何とかしてほしいものです。
私も、帰国のたびに「ああ日本はいいなー」と思ったものでした。

北九州は太古の昔から、中国・朝鮮と深い交流がありますね。
この皇后崎もその名残のひとつとして、貴重な存在になっています。
その当時、この変電所辺りが大きく洞海湾に突き出した岬だったようです。
ここに神功皇后、ほんとに上陸したのでしょうか!?
史実かどうかはおいといても、想像するだけでもちょっと楽しいです。
by 赤か毛 (2007-05-29 06:26) 

赤か毛

wanwanmaruさん、そうなんですよ。ちょっと忘れられたような
置き去りにされたような史跡として、実は危惧しています。

40年ほど前は、うっそうとした森が残っていて、松林があり
今思えば海岸線だった名残りのような雰囲気があったのですが
現在は高層マンションが建ったり、大きなショッピングセンターが出来たり
都市化の波に飲み込まれて、このような記憶が薄れて行く事に
だれも気が付かないでいる、ということが寂しい感じがします。

もう少し配慮が必要なように思うのですが…
by 赤か毛 (2007-05-29 06:34) 

赤か毛

薄か毛さん、お久しぶりです!コメント有難うございます。
石碑と煙突、古代と現代の出会い、って感じでしょ!?
この盛り土もちょっとなんか言わせん雰囲気です。

煙突は、確か私が小学校のときに建てられた集合煙突で
当時ひどかった煤煙対策の一つでしたが、
このことで黒崎周辺は改善されたものの、香月や上津役(変換が出てこん)
辺りまで被害が拡散されたと聞き、皇后崎のすぐ近くに
住んでいた私は、子供心にやるせない感じがしました。

仲哀トンネルと言うのがあるんですか!?
熊襲をやっつけるために大和からやってきた旦那さんの仲哀天皇が
香椎でなくなって、その遺志を継いで、熊襲の背後勢力だった新羅を
やっつけるために、身重の体で大船団を率いて、玄界灘を渡って
新羅を制圧したという話ですよね。

女帝として15代天皇に数える、と言う議論もかつて
あったと聞いていますが、まさに女傑ですね(^o^;
北九州の古代史はとても奥が深そうです。
by 赤か毛 (2007-05-29 06:49) 

赤か毛

tadaatsuさん、keykunさん、いつもnice!有り難うございますm(_/_)m
by 赤か毛 (2007-05-29 19:37) 

赤か毛

caramelpapaさん、毒フードとなると、中世のころまでさかのぼるでしょう。
全く始末に負えません。
by 赤か毛 (2007-05-29 19:40) 

二つ目草

皇后崎公園は近くなのですが、皇后崎が神功皇后に由来しているのは知りませんでした。
そもそも、神功皇后自体をよく知らなかったのですが、実在したかどうかもわからないながら、北部九州にはいろいろな伝説を残しているのですね。
応神天皇が産まれそうなのを石を当ててひっこめて半島に出兵したとか、
帰国して応神天皇を産んだ場所が宇美町、おしめを換えた場所が志免町とか。
土曜日に訪れた宮地嶽神社に祀られているのも神功皇后でしたが、そこはもともと地元の宗像族の古墳でした。
大和朝廷に平定されてしまったということなのでしょうか。
半島に出兵するにはこの辺りの海に詳しい宗像海人族の協力は不可欠。
一方で海人族は半島との交流も深かったとされています。
海人族、大和朝廷、半島・大陸それぞれの関係はどうだったのか、興味が沸いてきたところです。
by 二つ目草 (2007-06-04 21:54) 

赤か毛

二つ目草さん、私も小学校の6年生まで、現在ニトリが
ででんと建っているあたりに住んでいました。
セメント会社の社宅で、板塀が囲ってある木造の平屋建てでしたが
今考えると、社宅にしてはとても風情のある建物でした。

帆柱山の名前の由来は、事あるごとによく聞かされていたのですが
それが、神功皇后のことで、また皇后崎と関係していたと知ったのは
ごく最近です。

今年になってから、古田武彦さんやその他の九州王朝説をとなえる方々や
海峡をはさんで半島と北部九州に跨る国家が成立していた、
と唱える韓国の学者さんの本を読んで、新たなイメージを膨らませています。

二つ目草さんに教えていただいた、シュガーロードや宗像海人についても
とても興味深く、この地域を見直す種種の視点があることに気が付きました。
有り難うございます。

わたしは、半島の南側からの勢力や、南西諸島からの文化の流れが
九州で融合して、クマソや邪馬壱(←台ではなくイチ)国が成立していて
半島の中部東岸の勢力が、山陰や若狭方面から近畿に入り、大和朝廷が
成立していったような気がしています。

一方、太宰府あたりの筑紫野の風景と、奈良盆地の風景がとてもよく似ていることから
九州の勢力が何らかの事情で、大和へ移動し一大勢力なったところで
追い出された地へのリベンジに「クマソ征伐」や「半島征伐」に向かったのでは・・・
などと、勝手に想像しては楽しんでいます。
by 赤か毛 (2007-06-06 12:34) 

赤か毛

PS.二つ目草さん、トラックバック有り難うございます。
by 赤か毛 (2007-06-06 12:36) 

ワンちゃん

私は1957年に旧八幡市に生まれ、三ヶ森に移り、1967年まで永犬丸小学校に通っていました。皇后崎公園、覚えていますよ。4月に花見に行ったことを覚えています。父が八幡製鉄の社員で、他の社員の家族の方たちとお弁当を食べたことを思い出します。あの頃の桜は見事でした。
今はもうその名残さえないのが残念です。
by ワンちゃん (2008-02-23 22:20) 

赤か毛

ワンちゃんさん、ようこそ洞海湾通信へいらっしゃいました!
私は1959年の早生まれですから、一年上の先輩ですね。
私は筒井小学校でしたが、父は三菱セメント、母は当時木屋瀬小学校・穴生小学校の教諭をしていました関係で、皇后崎の電停はよく利用したものです。

また、社宅も電停のすぐ近くでしたから、電停の上に残っていた森から、花見の宴席の歌声がよく聞こえていました。 そして、その歌は決まって炭坑節でした。
(♪サノヨイヨイ・・・っち)
詳しくは知りませんが、その森と現在の皇后崎公園は、ずっとつながっていたのではないでしょうか。
私のいた頃はすでに3号線で分断されていましたが、皇后崎公園は今も花見の名所として市民に親しまれているようですよ。
http://www.geocities.jp/oeoe_club/sakura.htm

ちなみに、私の小学校時代の思い出が詰まった社宅は、今はニトリに変わっていて、跡形もありませんが・・・
by 赤か毛 (2008-02-24 10:35) 

ワンちゃん

赤か毛様
 レスポンスまことにありがとうございます。皇后崎公園のきれいな桜の写真を見せていただきありがとうございました。
 なんというご縁でしょう。私は熊西幼稚園出身です。筒井小学校はよく知っていますよ。熊西幼稚園の時に、筒井小学校に行って、小学生と交流をしました。たしか「おーおーわれらは筒井小学校。」という校歌でしたよね。私は1957年の早生まれですので、赤か毛様のちょうど2年上になります。
 実は、この2月に亡父の27回忌法要で八幡東区の実家に帰っていたのですよ。2月18日はたいへん寒い日でしたが、筑豊直方まで行って石炭記念館を見て、そのあと筑豊香月から西鉄バス香月営業所まで歩き、かつての香月炭鉱の跡を見ようとしましたが、そこにはただ旧国鉄香月駅の立て札があるだけでした。西鉄バスの香月営業所ですね。
 私たちの故郷は近代化遺産の豊富なところですね。私は今は大阪に住んでいますが、これからも北九州の歴史に向き合っていきたいと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。    ワンちゃん
by ワンちゃん (2008-03-01 00:31) 

赤か毛

ワンちゃん様、そうなんですか!?筒井小学校にいらっしゃったんですね!!
筒井小学校の校歌まで覚えていてくださって感激です。
今日書き込みを頂いていたとき、同時に香月のメタセコイアの記事を書いていました。香月の炭鉱の素になった、太古の樹です。
香月は貝島太助さんによって大々的に開発された炭鉱の町でしたね。
私も最近読む機会があり、感激しました。
お暇があったら、読んでみてください。
http://www.geocities.jp/book_of_tikuho/08tasuke.htm
それから、こちらもお薦めですよ!
http://www.geocities.jp/book_of_tikuho/15moekawa.htm
by 赤か毛 (2008-03-01 00:43) 

ワンちゃん

赤か毛様
 このたびは、炭鉱王貝島太助さんに関する書と、火野葦平さんの『燃える河』復刻版の情報をいただきありがとうございました。いずれも郷土史家の福田康生様のプロデュースになるものなのですね。前者からは、今回歩いた直方の地を思い浮かべながら、貝島の壮絶な人生について知ることができました。後者については、お恥ずかしいことに、このたび初めて知りしました。2冊ともぜひ手にとって読んでみたいと思います。遠賀川には、小学校時代に、友だちと自転車でよく行きましたよ。あの頃は、河川敷に牛が放牧されていましたね。のどかな風景でした。直方の石炭記念館で見たことをもっと調べようと思い、この「洞海湾通信」にたどり着きました。私の職場の同僚にも、東筑出身者がいますよ。なんだかおもしろいご縁ですね。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。 ワンちゃん
by ワンちゃん (2008-03-01 17:34) 

赤か毛

ワンちゃんさん、こちらこそどうぞよろしくお願いします。
遠賀川の牛の風景、今でも見られるようです。
よろしかったら、こちらもご覧ください。
http://chikuho-doukai.blog.so-net.ne.jp/2007-09-09

昨夏直方の歳時館(旧堀三太郎邸)でも、筑豊の石炭事業家を特集した展示があり、そこで、福田先生にお会いすることができました。
とても気さくで暖かい感じの方でした。
by 赤か毛 (2008-03-02 23:29) 

MARIA

こんにちは!
皇后崎出身の皇后崎在中者です。
記事を読ませていただきました、
皇后崎って、そんなに由緒正しい土地だったのですね。
初めて知りました!
石碑があるのはスカイマンションというマンションのとなりです。空き地みたい・・・。ぽつーんと建っていて、なんだろう・・・と昔から思っていました。
もう少しきれいに整備とかしたり、緑化活動をしたりしないのかな?

ニトリ!とかしまむらとかありますね!
ドンキとかあるところは、昔社宅だった気がします。
夜はと~っても暗くて、子ども心ながらに
「やだ~こわーい」と思っていました。

地元についてかなり無知だったことに気付いたため、
これから機会があれば皇后崎について、神功皇后について、さらに発展して日本神話について学びたいと思いました!

by MARIA (2013-06-18 12:46) 

赤か毛

MARIAさん、ようこそ洞海湾通信へおいで頂きました。赤か毛(あかかげ、と読みます)です。返信が遅くなり申し訳ありません。

皇后崎(コウゴウサキ)と書いてコウガサキと読む。よく考えると不思議ですが、昔は全然そんな事を考えずに、ただただ読み名を覚えていただけでした。この記事を書くにあたって、調べてみると面白かったです。

現在もお住まいとのこと、土地の歴史がわかると、住んでいてときどき物語を思い出して、往時を想像するのも面白いのではと・・・。そのような楽しみを見つけて頂けたら、私にとって望外の喜びです。

私は桜ケ丘(昔社宅の合ったところ)で小学校時代を過ごして、折尾に引っ越し、その後30年以上京都東京で過ごしました。この記事を書いたころは東京に居て、九州を懐かしんでいましたが、現在は北九州を通り過ぎて鹿児島に居ます。

この地は、和気清麻呂の伝説で北九州とのつながりもあり、隼人族の物語など、またとても面白い地域です。今はこの洞海湾通信は休眠状態ですが、そのうち錦江湾通信でも始めようかとも考えてはいます。が、なかなか時間が取れません。

最近は手軽なfacebookで近況を流しているぐらいで、まとまった記事が書けなくて、もったいないような気がしています。
by 赤か毛 (2013-07-20 23:16) 

まつく

神功皇后を調べていて、ここにたどり着きました。皇后崎町出身(1957)です。筒井小学校通っていました。この碑がある所は、昭和40年代、大学を作るため花見の山を切り開いた時、突端の見晴らしが良い所に移設されたと思われます。それまでは竹藪の切り立った崖でした。
by まつく (2019-09-13 02:53) 

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